2010年12月29日水曜日

R.W.計画 その2 (レリーフ化)

 私の仕事のなかで、レリーフはかなりの部分を占めているのですが、R.W.計画をすすめるにあたってチョッとレリーフについて考えてみました。
 レリーフは彫刻家の余技、あるいは全くの職人仕事という位置しか与えられていないのではないでしょうか。美大でレリーフを教えているという話しは聞いたことがありません。また、教えられる先生はいるのか知りません。洋の東西を問わず、以前は、彫刻家の弟子はレリーフを彫ることから始めていたことが知られてます。「最初は"割り物"というものを稽古する。これはいろいろの模様を平面の板に彫るので工字紋、麻の葉、七宝雷紋の様な模様を割り出して彫っていく」高村光雲談。
 以下に述べることは、つね日ごろ、私がレリーフを作るにあたって、何か法則があるのではないかと感じていたことを並べ立てたもので、実際こんな計算をして仕事してるものでないことをおことわりしておきます。
 レリーフ化する人物像の側面図を均等に圧縮してみた(図1,2)、多くの場合はこれでOKであろう、このときに正面から見てみえない部分(後ろに回り込む部分)は、壁面であるレリーフの地山に、かるい抜け勾配のアシとなってのびていく。
 つぎに、ルカ・デラ・ロッピアの"合唱団"の写真をみていただきたい。手前に丸彫りに近い人物があり、後方にいくにしたがって高浮き彫りになり、さらに浅浮き彫りとなっていく。


 R.W.計画では、一つの個体にこの"合唱団"の手法を当てはめていく。つまり、手前に位置する手は丸彫りにして、後方にいくに従って厚みが薄くなるようにしたい。これは、遠近法同様、指数関数によってもたらされるのではないか。
 地平線までのびるまっすぐな線路、これの乗る枕木の間隔を計算して描く人はいないのであるが、指数関数によって得ることができる。まず、一番手前の枕木の長さL1を描き、2番目の枕木の長さL2をaの間隔を置いて描くと3番目以降の枕木の間隔は、Xに1から順番に整数を代入してえられるYによって表される(図3)。
 指数関数を人物像の側面図の圧縮に当てはめてみた(図4、5)。aは作図したときの寸法でパソコンの画面上で10ミリだったので、現在の画面の寸法とは関係なくなっている。図4はL1を5、L2を4としたもので、図5はL1を10、L2を7とした。この二つの図では0が手首の位置にあり、したがって手のひらは圧縮無しの丸彫りとなる。先に地山つきのレリーフについて述べたアシの部分はR.W.計画の場合そのように作る必要はない、木彫で地山無しなので抜け勾配に作る必要はないが、図面のように回り込んで作る必要もない。

 つまらない話しでした。これはフォトショップの変形ツールを見て思いついたものです。今まで無意識にやっていたことを図式化できると思ったのです。私がパソコンをもらってから1年たちました。それ以前は、パソコンってなにができるのかさえ知らなかったのです。
 デジタルで一番おどろいたのは、画像を何度コピーしても劣化しないことです。テレビで解説者が伝言ゲームにたとえていました。アナログですと最初の人と最後の人で言ったことが変わってしまうのに、デジタルは全く変わらないということでした。聞いててよくわかりました。ただ、逆にデジタルは伝言し続けなくてはならないのであって、保存という観点からはまったくあてにならないものだそうです。
 いままでに撮ったフィルムをパソコンに取り込むことをしたのですが、フィルムが物としてあることの強さを実感しました。すぐにネガを選び出すことができました。これがパソコン内ではどうなるでしょう、迷宮のようになってしまうのではないですか。
 この一年、パソコンに向かっていた時間は800時間を下らないのではなかったでしょうか、完全な依存症です。作品があまり進まなかったわけです。
 まあ、知り合いも増えたし、まだ、イヤな思いもしてないし、良しとしましょうか。


2010年12月20日月曜日

R.W.計画 その1

 ある3人の妙齢の日本人女性がいる。この3人は一緒に写真に写る機会が多く、それは大量に手に入る。これをもとに立体化することは可能か。まず等身の図面を起こすことにしよう。写真をトレースしてもだめなことは明白だ。(だいいち、写真家の著作権がありますから。)
 かりに、この3人をA、N、J,とする。分かっていることは身長だけだ。Aが164センチ、Nが160センチ、Jが161センチである。比較的長い焦点距離のレンズで撮ったと思われる写真で全身から顔の大きさを割り出そうとしたが失敗。顔の高さ、幅ともにとらえにくい。が、この数字は参考のためにとっておく。
 次に瞳孔間距離に注目。瞳孔は中心がはっきりしてるので計りやすい。デバイダーで写真を計りデータを集める。このとき3人が一緒に写っている写真を選ぶことは当然だが、レンズの焦点距離によって周辺にデフォルムがでることを考慮しなければならない3人並ぶと両端の2人の瞳孔間距離が伸びてしまう、よく、集合写真で端の人の顔がでかくなるアレである。
 下の表のようになった。
Nを1としてあるのだが、平均するとAとJが1,04以上となり差が大きすぎ、これは日本人女性の最大と最小に近い値になるので、とりあえずNを59ミリ、JとAを62ミリとしたいのだが、余裕をみてNを62ミリ、JとAを64ミリとして作業を進めていくことにする。こういった安全策はあとで仕事の遅滞をまねくが、カービングなるがゆえの配慮である。
 同様に各部をデバイダーで計り、瞳孔間距離の数字と比較していく。


 空欄は髪がかぶっていて計測不能の部分である。ところどころ矛盾した数字もあるようだが、これで作業を進めていく。正対した等寸の投影図を描く。写真をみながら福笑いの要領で描いていく。個体差はほんの1ミリか0,5ミリとなって現れるのがわかった。数字がおかしい場合は、感覚のほうを優先させる。
 正対した投影図をもとに側面図を描く。
 正対した投影図をもとに,体重移動したり、七三の向きにずらした図面を描いてみた。
 図面の用意ができたとこまで書きました。仕事は先に進んでますが、振り返って書いてます。顔の寸法の説明図にボッティチェリを参考にして描こうとしたのですが、正面の顔を描いたのがひとつも見つかりませんでした。
 一時、人物の正面像を描くことをしていたのですが、モデルを使うと不可能なことが分かりました。モデルは、必ずどちらかに顔をそむけます。プロのモデルでもです。真正面をこちらに向けてくださいと言っても、じょじょに顔をそむけていきます。それとも、わたしのせい?
 
 ✭・・と申し上げましたが、ホルバインを調べましたら視線がこちら向いてますね。あの人ぐらいの腕ならあとで視線だけこちら向けることは雑作ないことですが、正対してこっち見てるのもあるから、モデルが真正面向いてくれないのは私だけの問題であることが分かりました。
 彼氏目線みられたことないのですが、何か?
 
 ✭2・・実は、私が人像彫刻をはじめたとき念頭にあったのは、日本の生き人形ではなく、ホルバインなどが使ったというモデル人形でした。(デューラーの使ったヤツは残っています。)  当時、モデルは施主のVIPであり、モデルとして長時間拘束することはできず、体の部分は人形に服をきせて描いたと思われます。前に伸びる袖の部分だけ克明に描かれてるのでそれが分かります。ビロードは触った感触まで表現しています。
 さきほどホルバインの画集をふたたび出してきて、新たに下図の視線がこっちをむいてないものを発見しました(本画ではこっちをみてます。)衣服のシワも本画の油絵と違います。
 ホルバインの段取りを復元しますと、モデルのいる王宮などに出張し下図をかなりのスピードで描き、衣装を借りて帰る。アトリエでモデル人形に衣装を着せて本画にとりかかる。顔は下図であるデッサンをもとに多少ウケの良いように仕上げる。その際、視線はこっちに向ける。本画を見せに行き、OKをもらう、あるいは修正を要求され持って帰ってなおす。納品してお金をもらう。
 わたしも、紙や粘土が介在してはじめて、ヒトの顔と目をまともに見れます。ふつう、ヒトの目をまともに見られません。

2010年12月7日火曜日

自作業撮影装置 リコーGX200

 コンパクトデジカメを買ってしまいました。その小ささと軽さに自作業撮影装置をおもいつき、作ってみました。
 作業中の目線に近い場所を考え、ハーモニカホルダーのようなものを考えましたが、フレキの三脚と合わせて、それなりの重さになっておじぎしてしまうので、ベルトを胸にまわしました。しめると息が苦しいので一部をゴムにしました。

 
 シャッターレリーズを口にくわえ、ボタンを歯で噛んで押します。もっと咥えやすいレリーズをと思ったのですが、メーカー純正のものでしか使えないようです。このレリーズをバラしてみたところ、回路がはいっているので、ただの接点ではないようなのです。もう少し形が薄いといいのですが・・・、ずっと咥えているとヨダレが落ちてきます。リコーのサービスセンターの女性の相談員の方は、この案にウケてくれました。奥に行って技術の人にレリーズのことを聞いてきてくれました。フットスイッチの案はあったようです。

 制作中の作品を撮ってみました。さも、仕事中の感じで撮れてますが,実際、こんなの付けて仕事できません。

先日、ある方からいただいたカンナです。ビブラペンでさびのカサブタ部分を粉砕してます。ビブラペンの先端は丸くしてます。

 鑿の研ぎを撮ってみました。これは私が彫刻刀類を研ぐ、クセ物専用の中砥で凹になってます。縦方向は凸です。
 これから、このカメラを使ってこのブログを工房報告らしくしていきたいと思います。

2010年12月4日土曜日

頭像考


 彫刻家どうしの会話で"首"といっているが、世間では頭像です。あるいは,頭像といっても通じないかも知れない。昔、自分の作品を梱包し、抱えて運んでいた彫刻家が職務質問にあい、「持っているものは何だ」の問いに「首だ」と答えた。「ほー、やってくれたな。ちょっと来てもらおうか。」ということになったそうだ。
 頭像とは、かように不安定な存在なのだ。東西を問わず彫像は全身像であり、人体の部品のみを作ることは考えられなかった。興福寺に仏頭があるが、火事で焼け落ちたものであることはご存じと思う。古代エジプトの遺物に石の頭像があるが、これは木などの別の素材で胴体を作って、さらに実際の衣服が着せられてあったと思われる。
イクナトン王(未完成) 前1355年頃 アマルナ黒彩 (講談社・世界の美術館より)
テーイエ女王 前1370年頃 いちい材   (講談社・世界の美術館より)
 頭像の起源を考えると,古代ローマ時代人の骨董趣味にたどりつく、すでに古代ローマでは、ギリシャ時代のものが骨董として扱われていた。ギリシャの彫像が、ステイタスとして屋敷を飾っていたのだ。無論、修復して不足部分を後補したものが多かったのだろうが、そのまま鑑賞した人もいたはずである。倒壊した彫像の上部は頭像であり,下部はトルソであった。、そのうち、供給がおっつかなくなり、古物の贋作が始まる。これが頭像の起源にちがいない。そして、当時の人の肖像もこの様式で作られた。
サッフォ(ローマ時代模作) 前4世紀初め 火山岩 (講談社・世界の美術館より)
 また、古代ローマ時代人は胸像も発明した。彫刻は倒壊しても,胸像のような残り方はしないのであるが、頭像もネックレスのぶら下がる位置で切れているものが多いようだ。ちなみに、彫刻に色を塗らなくなったのも古代ローマ人である。これも、すでに色の落ちたギリシャの大理石像からの発想だ。(日本には、塗らない檀像彫刻が一時的にありますが、これはチョッと違う理由があるとおもいます。リーメン・シュナイダーが彫刻に彩色しないでも良いと気づいたことに、近いと思います。仕事を終えてそこから立ち去ったあとに塗られちゃった場合が多いみたいです。)
 さて、最近は、この頭像の彫刻の1ジャンルとしての位置がいよいよ怪しくなって来ている。彩色のある彫刻がまた増えたことと無関係であるまい。彩色した頭像、これは,我が国のように首狩り族の子孫でなくても、ありえない。頭像=無彩色が条件だと思う。これは先に述べた頭像の由来にも関係ある。
 ここで一つ秋山正治さんの頭像を見ていただきたい。私は修行中に、同じモデルを秋山さんと一緒に作ったことが、どれだけ勉強になったことか。頭像を秋山さんのように作りたいと思った。その後、秋山さんは大病してしまったのだが、仕事は続けてるようだ。手元にある画像が限られてるが、その中からご覧下さい。
秋山正治作 井田君 1982年出品

秋山正治作 ふたみ 1984年出品

秋山正治作 松 1989年出品

 イイでしょ、出来るようでなかなか出来ません。いいのが他にも、もっとあるのですが。田中さんを作ったヤツとか。  
 
 頭像あるいは肖像衰退のもう一つの理由に、人はヒトの顔に興味がなくなってきたのではないか、というか、避けて通っているのではないか。私は自身を肖像彫刻家とおもっているのですが、これはゆゆしき問題です。わたしはヒトの顔ほど面白いものはないとおもってます。荒木経惟 は顔は究極のヌードだといってます。あそこより、よっぽど猥褻だというのなら同感です。写真家のスナップからヒトの顔が消えてしまった。面倒は避けたい気持ちはわかります。世間では肖像権、パブリシティー権、プライバシー、そして著作権までもが混同されている。これについては、私も研究中ですが、写真の次は絵画、彫刻に波及するのではないでしょうか、週刊誌の似顔絵コーナーが消えたら要注意です。そうならないことを願います。美術にたずさわるものは、あるのかないのかもわからない肖像権とたたかっている写真家を支援すべきと思うのですが、どうでしょう。
丹野章著 「撮る自由」本の泉社発行 本体952円

2010年11月13日土曜日

街は変わった、人も変わった。

 知人の展覧会にかこつけ外出。浪人時代に、月曜にやってる唯一の図書館だった都立中央図書館にいってましたが、それは四半世紀まえのはなしです。久しぶりに歩いた広尾→六本木は、もはや私にとって外国でした。
 まずは、ベルリン観光から。
ドイツ大使館、壁にプリントを貼り展示がなされてました。 
ドイツ大使館の壁のベルリンの壁あと
有栖川記念公園の先住人


六本木トンネル
魔窟ギロッポンズルヒの奈落

 公園で友人のミットをグローブをはめて叩くドイツ人(野球のではありません、ボクシングのです)、サッカーボールで遊ぶ子供あり。
 Sind Sie Max  Schmeling? あなたは、マックス・シュメリンクですか?
 Trainiert ihr für die W.M.?   ワールドカップに出るの?
と言えばよかったのです。語学力の不足で、とっさに出るわけはありません。
 すっかり外国旅行気分になったので、高いビヤホールはやめにして、ターキッシュゲストアルバイターのケバブを食べました。

2010年10月26日火曜日

複写用バキューム定盤

 20年前、ある彫刻家の作品集を作るために、他人に頼むことが出来ず、ひとりで写真撮影をしていました。その時に、折れたり、くせのついたデッサンを撮影するために掃除機を利用したバキューム定盤を作りました。
 9mm厚のシナベニヤで箱を作り、2cm間隔で3mmの穴を開けました。かなり大きい箱なので,中程に束を立てました。
 簡単な仕掛けです。あとは側面に掃除機のホースのパイプの径に合った穴をあけ
そこにホースをつっこみます。
 大きいデッサンも撮影したので、箱はそれに合わせました。小さいものを撮影するときは、残りの穴を紙でふさいで吸引力が落ちるのを防ぎます。薄い紙は透けて箱の穴が写ってしまうので、そういう場合は、デッサンと箱の間に寒冷紗をはさみます。


これがあるのとないのとでは、複写精度がかなり違うと思います。

2010年10月8日金曜日

ネアンデルタール

 自分の群れを守るため、相手を攻撃する、逃げる。コレは動物の本能です。だが、相手がライオンとかである場合なので、同種の動物には適応されません。
 それで人間ですが、相手が同種の人間であってもライオンや鬼とみることが出来ます。自分の利益、女(男)、子供を守るため同種なのに相手をライオンにみてしまうのです。
 しかし、これは人間の本能ではありません、農耕が始まってから、すなわち、人類300万年の歴史のなかの、ケツのほうの1万年前から始まったにすぎません。狩猟採集経済の段階では戦争はありません。現在のイヌイットやピグミーをみても分かります。
 新人がヨーロッパに進出し、そこにはネアンデルタール人とよばれる別種の人類がいたわけですが、新人が序々にネアンデルタール人をとりこみ、数が劣勢であったほうの遺伝子が残らなかったようです。すでに子供が一代交配種になるほど、かけはなれていた可能性があります。
 コレが事実だとすると、人間はちょっと毛色の違う、もはや生物学的に別種のものも取り込む力があるのです。今後の発掘成果が期待されます。

2010年10月5日火曜日

Gene Hanner

 先日の夕方、友人の出品している伝統工芸展を日本橋でみて、その足で湯島にあるホステス用の衣料品屋へ作品用の頭髪を買いにまわりました。この店は私のことを覚えていてくれて、何に使うか知っているので、めんどうがありません。安くしてくれます。頭髪といっても無論人造で、かつらをバラして使います。
 不忍池に出ると骨董市がたっていました。あたりは暗く裸電球の光をたよりに何時ものように大工道具などを物色していました。すると、ある店で写真が目につき、値段次第で買おうかなと考えました。六切りの写真が2枚あり1枚は戦前のドイツの雑誌”みみずく”にあるような神話的な題材のダンスをしている女性数人の写真で。もう1枚はダンサーのポートレートでGene Hannerと署名がネガから焼きつけられてます。印画紙の粒状から大型カメラによる撮影でしょう。ただ複写が入っているかもしれません。ポートレートの方を買いました、額がついていたので2000円でした。
 店の主人によると、とあるバレー教室の先生がドイツに留学していた際に入手したもので、その方は80歳になる女性だそうです。ということは、ドイツでリアルタイムで入手したものなら、ベルリン 20年代のものではないかも知れません。あるいは、留学時に世話になった先生の若かりし頃の写真かも。
 とにかく、不忍池の夜店でベルリン20年代の写真を買うなんて(そのときは、そう信じていた。)むかしの東京人になったようでウキウキして帰りました。村山知義、藤牧義夫なんて名前があたまをよぎりました。

 下の写真は、だいぶまえに古本屋で500円で買った同じく六切りの写真です。アメリカの商業用の写真原稿でしょう。

2010年9月28日火曜日

越後中門造り 岩野富次郎家

 人の住まぬ家の荒廃は早い、それも世界有数の豪雪地帯にあってはなおさらである。私より数えて4代前の岩野富次郎の代に当たる明治初め頃に建てられた家も、10数年間人が住まぬようになっていたので、1981年の大雪で屋根の半分が倒壊し、そして82年の夏には、取り壊すことになった。以後の図面は解体直前に記したものである。

 *景観
 直江津からバスで頸城平野を経て、十文字から保倉川に沿い、さらに奥へ進むと大島村大平の街並みがあり、その少し手前が長者嶋とよばれる部落である。この戸数15軒からなる部落の構成を図示する(1982年時)。
岩野富次郎家の屋号は向(ムコウ)
*岩野富次郎家 間取り
 東西9間半、南北6間の主屋に、東西3間半、南北2間半の中門が付随して成り立っている。規格は1820mmの柱の心芯寸法とする江戸間(田舎間)である。
 形式としては、欅の柱に囲まれたヒロマ(広間)を中心として西側にザシキ(座敷)・ネマ(寝間)、東側にドマ(土間)・ジロバタを杉の柱で付随的に構成させてある「取り巻き広間形式」の民家である。
 家の西北端には、戸主の寝室とされているネマがあり、となりのザシキと同様に床の間がついている。なお、ザシキの床の間は二つに仕切られ、片方が仏壇となる。一般町人と本百姓層の民家での床の間は近世中期以降、地方によって程度のさこそあれ付けられるようになった。床の間禁止の禁令がでていることは、それ自体、床の間がかなり存在していたことを証拠だてており、この禁令はさほど守られなかったようである。
 ヒロマは2間×3間と4間×3間とに分けられ、天井がなく、中央に強大な指物・梁・屋根の小屋組まで見える。おおきなヒロマの3分の1が板敷きとなっている。ヒロマの南側の入り口は土間が半間の縁側が半間となる。
 囲炉裏のある部屋は普通、台所とよばれるが、この家ではジロバタとよんでいた。
 ジロバタのとなりの北東端のところは、ナガシとよばれ、井戸が掘ってある炊事場である。
 土間の上がり框にそって南につきあたったところに風呂があり、中門の二階へ行くには、そこにある階段をのぼる。
 土間は中門までつづき、作業場となっているが、中門の方にはウマヤ(厩)と便所がある。便所は冬期にくみ取ることができないので深く広く掘られている。
 中門の二階は、中二階であり、積雪期にはここから出入りする。その中二階の奥は大二階とよばれ昔は作男が寝起きしたという。
 なお、この家を特徴付ける中門であるが、中門とはよばず、トマグチとよばれていた。
 *架構
 架構は北陸一帯の特に加賀・能登・越中にみられる「枠の内造り」になっておりヒロマとよぶ集まり部屋の上部を強固な井桁組として他の部屋の構造は、付随して作られている。すなわち、岩野富次郎家では、雪の降り積もるのは西側からであり、そのために9寸角の欅の柱はヒロマを取り巻きながら全体として西側にかたより、雪の不均衡な積もり方に対応している。
 ヒロマを取り巻く架構は堅固なもので、鴨居の幅は1〜2尺ぐらいで、はじめから柱に組み込む構造材で、指鴨居とか貫鴨居とかよばれるものである。
 敷居から鴨居までは、1760mmであり柱の上端まで4320mmで、その上は小屋組へとつづく、指鴨居上端から柱の上端まで筋交いが入っている。
 *材料
 木材はすべて現地調達とおもわれる。欅の柱は不揃いであり、マサカリのハツリ目が残っており、まがったものもそのまま使われている。そして板などは手引きの大鋸目の矢羽根模様がついている。このことは帯鋸などの機械がまだなかったことをしめし、厚さも不揃いである。
 屋根は軒先を短く苅った茅葺きであるが中門の切り妻の部分は亜鉛引きのトタンである。中門の部分まで茅葺きでないものは、簡略型の中門造りであると言う説もあるが、もちろん古い時代にはすべて茅葺きであったので、そうすると、ふきあわせのダキとよばれる部分がいたみやすいので、切り妻の部分はトタン葺きとなったのであろう。また、中門の屋根型は古いものには寄せ棟や入母屋がみられる。
 外壁には白壁の部分はほとんどみられず板壁に覆われている。板壁は土に接し、床下を見ることはできない、これは家屋が雪に埋もれている時、雪面の冷たい空気は降りてきて家屋内の暖かい空気はうえに上がる。つまり煙突効果により床下から、すきま風がさかんに吹き上げてくる。であるから完全に板壁で床下まで外気を遮断することが必要となる。


 *越後中門造り
 古くは雪国の民家は土座住まいであった。”北越誌”には「魚沼郡の民家、多くは床無し、皆土間に藁を散じ、その上に筵を敷いて暮らす、床あっては雪中凌ぎ難し」とある。規格化された板がなく高価だった時代にはかえって板敷きなどにすると、すきま風がひどかったにちがいない。そして柱は積雪にたえるため掘っ立て柱が主流だった。
 そういった古い様式をつたえているものに旧所在地、長野下水内郡栄村上ノ原、現所在地大阪府豊中市、日本民家集落博物館の旧山田家住宅がある。栄村は信越国境付近にあり、秋山郷の一部にあたる。この家は壁は茅で作られているが、こういう茅壁は過去においては珍しいものではなかった。そして上屋柱2本が1mほど地中に埋けてあり、そのまわりには柱が腐らぬようにニガリがつめてあるのが発見されている。
旧山田家

 以上のレポートは、学生時代に授業の単位を3分の一の学生にあたえないことで有名な中野栄夫先生の夏期の課題で提出したものです。試験がまるでできなかった私ですが、このレポートのおかげで救われたとおもっています。先祖に感謝しました。
 大幅に縮小して載せました。既存の本から引用した部分もあるとおもいますが、今となっては分からないので悪しからず。