2013年12月31日火曜日

印刷風船保存に関する試み

イベントで配られた印刷入りの風船を空気を抜いて持ち帰りました。
とりあえずシッカロールをまぶして置きましたが、チョッとディスプレイしたくなったので実験してみました。
保存と題しましたが、ほんとに保存のためならいじらない方がいいかもしれません。






凸面鏡として売られているプラスチックを買ってきました。無地の缶バッチをさがしたんですが、ありませんでした。


支持体に凸のものを選んだのは空気が逃げやすくするためです。

手ごろな筒型の容器に二つ割りした風船を輪ゴムで張る。写真は味噌ピーの容器です。ネジが切ってあったので、おあつらえむきに輪ゴムが止まりやすかった。

ゴム風船と凸面支持体、両面にゴム糊をぬる。この時、ゴム糊は専用溶剤で薄めることが肝心。

しばし、ゴム糊を乾かす。

中心を見定め、一気に押しつける。やり直しはきかない。

押しつけながら、空いた手で輪ゴムを切る。

裏はこんな感じになる。後で処理する。

支持体が白い方が良かったかも知れない。


凸レンズでやる前に、ハッカ菓子の容器でやってみたもの。
これはフチの形状が複雑だったのと、風船を板に張ったので失敗でした。

2013年11月30日土曜日

モース・コレクション 義廣の鑿

 江戸東京博物館の「明治のこころ モースが見た庶民のくらし」展に行ってきました。モース・コレクションの大工道具が来ていると聞いたからです。



 以前から小学館「モースの見た日本」で、そのコレクションに國弘の外丸鑿と義廣の広鑿があることは確認していた。
小学館「モースの見た日本」から複写
行ってみると、写真で下の義廣の広鑿があった。

鍛冶職・義廣について知っていることは伝聞によるものが多く伝説の域にまでになっている。広く伝わっているのは、この写真のノミの作者の國弘と義廣は兄弟で江戸末期に越後から江戸に出てきて名を上げた人、ということだ。

 「日本之下層社会」の横山源之助は有磯逸郎という名で「怪物伝」(平民書房 明治40年刊)という本をだしている。「名工の苦心」という章で義廣について聴き書きしている。
それによると生年に関しては触れてないが、田中義廣(本名:仁吉)は越後三条小池村に生まれ10才で江戸に出て来ている。安政2年(1855年)の大地震の際には独立していて復興に従事する大工の間で名を売ったとされているのでその頃には30才ぐらいにはなっていたのではないだろうか。没年は明治29年(1896年)。明治37年には長男の義太郎が57才で没している。
この聴き書きがなされたのはその明治37年である。その頃は3代目になる石太郎か仁志郎が仕事をしていたことになる。文中では義廣は弟子をとらずに親族だけで製作していたとある。横山源之助が聴き書きした相手は義廣の親戚だと名乗る老人なので、ここらへんは定かなことではない。言い伝えで弟子だとされる房州の豊廣や浜松弁天島の武虎は親族だということか?
あとひとつ不可解なのは義廣の兄とされる國弘のことが一言も出てこないことである。これは紙面の関係で、そこまで広げて記さなかったことも考えられる。
右は江戸買い物案内、井坂屋との関係は不明。左は東京買い物案内
 浅草の並木に井坂屋(後の河合鋼商店)が打刃物専門店を営んでいたようで、義廣はそこの専属であったという。高村光雲はそのことについて述べている。「・・・それから駒形に接近した境界(さかい)に これも有名だった伊坂という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に来ていた)。」
光雲の修行していた東雲の工房はこの近くで、義廣の名はあげてないが、使っていた可能性がある。浅草大火(1865慶應元年)の際に師匠の道具は失われたが、光雲の使っていた道具は助かっている。「ところが、また不思議なことには、私の道具箱がどこにどう潜んでいたのか、そのまま助かった。それは羊羹の折を道具箱にしたもので、切り出し、丸刀、鑿、物差しなどが入っていた。これが助かったので、後に大変役にたちました。」

さて、私が古物市で集めた中で義廣とおもわれる物を出してみた。

 その中で柄にすがった状態のもの。





 
 一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸3分、正幅:35ミリ
義廣と刻印がよめる。玉鋼であるが傷もなく組織が細かい感じ。研いであまく感じるが使用できる状態でないので不明。叩かれて傷だらけだが、モースのコレクションの広鑿に近い感じがする。



 
 一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分5厘、正幅:34ミリ
義廣と刻印が読み取れる。玉鋼だがこれもうまく鍛えられていて細かい。使っても切れるとおもわれる。



 一寸四分広鑿
首:2寸2分、コミ:1寸3分、正幅:42ミリ
当初、義廣と判断したのだが、自信がなくなった。玉鋼であるがこれも細かく、コバが薄いため鋼を巻いた形跡がない。(柄にすがった写真の一番左の鑿)



 一寸六分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分、正幅:48.5ミリ
刻印が右側だけ傾いて打たれている、義廣と認識した。
地金は無地だが日本地であろう。側面は撮らなかったのだが今回の出した中で、これだけ甲がえぐれている。(柄のすがった写真の左から二番目)



 
 一寸外丸叩き鑿
首:1寸9分、コミ:1寸2分、
これは豊廣であった。参考までに。この中で唯一使っている鑿。(柄のすがった写真の左から3番目の鑿)
 
 



 鉋は2枚を所持している。



面の刻印
甲の刻印
 二寸鉋
正幅:74ミリ
叩かれたまくれがひどく、斜めになりパースがついて写っているが、コバはほとんど平行。甫がベタに押されてしまっているので台には挿げたが使用したことがない。輸入鋼ではないかと疑いたくなるほどの均一さ、鋼の素材はちょっと判断できない。



 一寸六分鉋
正幅:58ミリ
上羽の蝶の紋章がハッキリしている。きわめて薄く古い時代の物ではないだろうか。まだ中砥までの研ぎ。




 * 追記


 五寸鉋
大工道具店をやっていたMさんが大工さんから丁譲り受けたのが戦前。
まったく同じ鉋を二丁リャンコにして使っていたようです。どちらが仕上げかわかりませんでした。調子の良い方を仕上げにしていたのでしょう。大正年間は使われたと思います。
明治後期に作られたとして義廣は二代目の義太郎さんではないでしょうか。

 箱は私が作りました。右は台ナラシのための馬に乗ってます。それと台ナラシ鉋の定規です。


 削り試験を一回やったきりです。以後、使ってません。

屑は厚めですが、ひと研ぎで246尺削れました。ハガネが玉鋼ではなく輸入鋼だからでしょう。義廣の家は、けっこう早くから輸入鋼も使っていたのではという気がします。


2013年10月30日水曜日

第2回Perfumeダンスコンテスト~魅せよ、LEVEL3~ に行ってきました。











審査員のMIKIKOさん、Perfumeのお三方、関 和亮さんらの席は私のすぐ右でした。

法廷スケッチに近いことを頼まれたことがあります。
取材拒否のラーメン屋のスケッチです。
結局、不採用でした。その後、店が写真撮影を許したためです。


2013年10月16日水曜日

R.W.計画 湾岸地区、有明近辺にて
























上がデジタル一眼、下が iPhone の画像、ん〜〜考え込んでしまう。。。


2013年9月29日日曜日

R.W.計画 コマ撮り











デジタルカメラで単焦点レンズを使い露出はマニュアルで固定、148コマを撮影し動画編集ソフトで静止画を平均0.3秒の再生時間のクリップにして列べ、音源を加えたもの。

音楽は Roland Kirk のアルバム” Volunteered Slavery ”より
” Search For The Reason Why ”

2013年9月5日木曜日

R.W.計画 目をとじる

あらかじめ本体から型取りしておいたラバー型です。降りるマブタを作ってます。
まず、芯になるシンチュウを細工。



閉じるまでの4段階のマブタ。












全部閉じるとこんなかんじ。





















4段階のマブタを全部使ってコマ撮りの試験。









2013年8月14日水曜日

掻き出しノミをつくる

掻き出しノミを作りました。加工前のノミの写真を撮っておくのを忘れました、このタイプの一分五厘のノミの減ったものでした。おいれノミとも薄ノミともつかない小ぶりのノミです。

鍛冶場がありませんのでプロパンのバーナーで赤めて、万力に先端を挟んで曲げました。この後、再度赤めてブリキ缶の中の炭の粉の中につっこんで徐冷します。

軽く加工しました。

焼き入れです。このプロパンのバーナーで目一杯赤めるぐらいが、ちょうど焼き入れ温度のようです。焼き入れの後は、水滴がハジくぐらいに火で炙って焼き戻ししました。


完成した掻き出しノミです。


以前に,この方法で改造した逆鏝ノミです。

それまで出来なかった加工が出来るようになりました。
足首の箇所でバネと干渉していた箇所を広げてます。


その他、各関節の可動範囲を広げました。










こんなポーズがとれるようになりました。








ロックTがないのでソウルT。