2014年2月9日日曜日

名工國弘とオイレ鑿 そして國行

ある晩、夕食時にNHKの「お江戸でござる」を見ていて、ハタと膝を打って独りで興奮したことがあります。いつもの芝居のあとの解説で杉浦日向子さんが「江戸時代は老入と書いてオイレと呼んで、隠居のことをさす言葉だった。」と教えてくれました。
この話しで、土田一郎さんが口伝で聞いていた「大工はオイレ鑿が作られる前は叩きノミの使い減ったものを肉まわしを削って造作用鑿に転用していた。」ということを思い出したのです。
つまり、江戸時代に老入鑿(オイレ鑿)とよばれていた、叩き鑿がちびて本来の用途に支障がでてきた物を改造して作っていた造作用の鑿を、明治になって最初から軽快な鑿として製品化するにあたって、いかにも中古のような老入という字を避けて「追入鑿」「押入れ鑿」などの字を当てたのではないか、ということです。

最初にオイレ鑿を製品化したのは國弘だと言われてますが、この國弘の造形センスたるや、鑿においては千代鶴でさえその枠の中から逃れられなかったほどです。
オイレ鑿は持っていないのですが、突き鑿が一本あります。



一寸八分突き鑿 正幅: 41.5mm 首:3寸 コミ:1寸4分

この突き鑿はかなり古い時期の國弘ではないかと思ってます。「天」の刻印がありません。古物市で國弘より一世代前の越後の幸道あたりのものだと思って買ってきて、家に帰ってから國弘だと気づいたぐらいです。ハガネに雲がありますが、焼きが甘いというのではなく、材料のハガネに低炭素のものが混じっていたのでしょう。

最盛期になりますと國弘は突き鑿に限ってはコミの長さが一寸九分ほどになるはずです。下の八分の突き鑿は叩いた傷がひどく國弘とは判別できないのですが明治初期の鑿だとおもいます。
八分突き鑿 正幅:23mm 首:4寸 コミ:1寸8分








はなしは変わって、1995年の4月、東郷神社の古物市でのことです。そこで鑿袋にくるまった見るからに古風な柄のこしらえがついた鑿群がありました。中に國弘のような鑿があったのです。店主はまとめて売りたいとのことでその場では断念しました。
國弘の「天」のような刻印なのですがチョッと違う、これを憶えていて図に描きおこし土田さんに見せましたところ「國行です。」とのこと。ことの重大さにガクゼンとしました。國行は父・國弘の工房で製造の大きな部分を占めていたらしいのですが夭折したので自分の國行銘での製作はごく短期間だったそうです。土田さんも鑿一本見たきりだそうです。
翌週の日曜日の早朝、その店主が出店している花園神社に出かけて店主が荷をあけるのを待ちました。「そんなにあわてなさんな、桜でも見てさ」って言われたってそれどころではありません。中古道具としては高額でしたが鑿袋一つ分を手に入れました。中に石堂寿永とおぼしき廣鑿もあったので筋のいい大工さんの道具だったのでしょう。

1寸四分オイレ鑿 正幅:41mm 首:1寸5分 コミ:1寸
(コバが使用者によってスられています。)

これがホントに國行の鑿であるかどうかは確証ありません。國弘の弟子筋は「天」を用いずに「大」の刻印を使ったそうです。「大」の刻印の鑿がもう一本あります。

一寸八分廣鑿 正幅:52mm 首:2寸一分 コミ:一寸三分

1998年の6月に川越の古物市で買った物です。これはあきらかに焼きが甘いです。が、姿としては國弘近辺の製作者とみていいでしょう。
柄にすがった状態で列べてみます。

ここらへんの事実は「大・國行」と刻印されたものが発見されれば明らかになるでしょう。國道の「大」は分かっています。列べてみましょう。
一番上が東郷神社のオイレ鑿、中が川越の廣鑿、下が國道の鉋です。
トレースしてみました。
同率の拡大です。左が東郷神社のオイレ鑿、中が川越の廣鑿、右が國道の鉋です。

新たな発見が待たれます。



*追記 (2015年8月21日)

友人が「大」の字の刻印された鉋を入手したので写真を撮らせてもらいました。國義と読めます。面(おもて)のコバ近くに登録の刻印がありますから國行の時代の物ではないようです。


私のノミの「大」の刻印とも違うようで、内心安堵しました。

また、トレースしてみました。