2012年12月23日日曜日

目黒川暮色





駒沢通りが目黒川に向かって坂が下り始める付近。






環6と目黒川に挟まれたところにあった島のような街は消えていた。モノクロ写真は2002年の撮影。











目黒川を渡り防衛庁の官舎の崖につきあたったところの小さな公園。












別所坂児童公園、景色が変わってしまい、今回たどり着けなかった。


2012年12月18日火曜日

寝床暗室


12月9日の日曜日に四つ木で 、iPhone で撮ったぶんの写真です。
夜、寝床で iPhone の Instagram をいじって出来た画像です。
以前にやっていた暗室作業を思うと、なんという堕落でしょう。







* 以下はスマートホンのアプリ・Instagramのはなしです。

Instagram のHDR処理のような自動現像はけっこう使えますね。カメラよりiPhone の画像が良いと、プチ・カメラファンの私は何かくやしい気がするんですが。。。

自分で忘れないように工程を記しておきます。
元画像は空に露出が合ってしまい、人物は逆光の影の中。
「白飛び」したところはデジタルでは情報ゼロですが、
黒くつぶれた中には階調が入ってるもんですね。

左下の歯車マークを押すと自動HDR処理ですね。
私の設定ではアップしないと変更下画像が保存しないので、
アップしてすぐ取り下げ。
アルバムに残った変更後の写真を再度HDR自動処理。
そのあと、「Toaster」という処理をしました。
左から順ですね。
同じような画像をフォトショップで作ろうとしたがだめでした。
途中で画像が適度に荒くなったのが効果的だったのか
また、二匹ドジョウを狙っても同じ風にはいかないでしょうけども。

なお、最近 Instgram のアプリをアップグレードしたら、
正方形画像しか投稿出来なくなりましたので、ダウングレードしました。
iTunes で同期した後、更新前のバージョンを捨ててしまうと再び入手出来なくなるらしいです。

2012年11月2日金曜日

R.W.計画 その後 2

だいぶ百姓足になってしまいました。
ハイヒール履けるかな?

足先に蝶番をうめこみます。(旧作)
こうしないとヒールはおろか運動靴も履けません。


部品が揃い、組み立てました。


無事、起ちました。
ちょっと手が長いかな。。。
頭、小さいかも知れません、だとしたら大問題です。




* 12/4追記
結局、上半身、頭部、新調しました。
頭部は仕上げれば、もうひとまわり小さくなります。
肩幅はすり合わせで、これより幾分狭くなるでしょう。





2012年10月24日水曜日

R.W.計画 その後

人像の制作は、一人で撮影する関係から、身軽なレリーフ状へと移っていったのですが、この等身の女性のボディーは途中で制作を放棄したまま何年もたってしまいました。未使用です。

頭部をつくります。最上級の尾州ヒノキの柾目です。
だいぶ前に木場で買いましたが、店はまだあるか分かりません。
新木場と言えば今は倉庫とライブハウスですか。。。
ボディーは値段的に尾州は使えないんで米杉なんですが、
そういえば、その米杉を買ったのは STUDIO COASTのとなりの材木屋でした。

このボディーの主にしようと思っている頭部の型紙です。
やけに、アフリカンっぽい感じです。
側面の型紙で余分なところを落としました。チェーンソーを使います。

ここまでは、鉈の作業です。前後に二つの材を接いであるのが分かると思います。

定盤の上で接ぎ合わせ面の平面を検査。接ぎ合わせ面を削り直す。

片面のダボ穴をあけ、その穴に画鋲の径に合わせて挽いた物を仕込む。
画鋲の針がもう片面の穴の場所を示す。

片面に1センチも入れば十分。

部品が揃う。

ボンドにて接合。

頭部が入る部品の穴のスリ合わせ。

膝下を作って身長が決定。目標164センチ。

木の位置がそうなんだけど、、、

チョッと無理かなアフリカ人ならいくんだけど。。。


* ボール盤による両センタ加工
材料両端の所定の2点から錐で揉んで、
真ん中で穴を貫通させるにはどうしたらいいでしょうか、
旋盤の両センタ加工の要領です。
長尺の錐(この錐はつかわない)で芯出し。
下に旋盤の芯押し台のセンターを設置。
錐の降りきったところにセンターをあわせる。
110mmX110mmX440mmの材料の芯に12mm∅の穴を貫通させる。
長さ200mmの錐(シャンク含めてぎりぎり220mm)で両端から穴あけ。
脛用の材2本にバネ通しの穴あけ、無事終了。



*人体の各部を別々に作り、それに可動の機能をもたせますと、思いもよらぬ形になります。
こんな写真撮ってて、仕事が進みません。
ドイツ語でバインですね。バインバインです。(複数形はバイネですが。)
アイス・バイン食べたいですね。



2012年8月23日木曜日

彫刻刀の研ぎ(クセ物の研ぎ)

これらは私が彫刻によく使う刃物です。
彫刻用に刃先を直線に研いだ刃物は、ほとんど使いません。
刃先を曲線に研いだ「クセ物(曲物?)」と呼ばれる範ちゅうの刃物です。

中砥です。上の左の画像は中砥と、それ専用のツラ直し用の中砥。
出来るだけ単純化して砥石の数を最小限にしてます。
すべてをこの中砥の表裏2面でこなしています。
表裏、浅めと深めの2面です。縦方向は凸にしてます。
縦方向に凸にする意味は、中砥で刃物をえぐれさせて研ぐ迅速研磨法ではなく、中砥のツラ直しの頻度を少なくするためです。

左は仕上砥石、こうやって使うには幅の広い仕上砥はもったいないですね。細長い型があれば安くて済みます。
クセ物の刃物は柔らかい仕上砥で良い、という人がありますが、やはりある程度堅い方がイイです。点で刃物が砥石とあたりますから圧力が直線の刃物より高くなるはずですから。
右は内丸(内ハガネ)の刃物の甫(ウラ)を研ぐ内曇(うちぐもり)のコッパ。

仕上砥も、やはり浅めと深めの2丁。

柳刃状のトウの中砥での研ぎ。
なにも見えないので右の画像は左手を外してみました。
左右に傾けながら刃全体を研ぎます。

柳刃状のトウの仕上げ研ぎです。ウラは別の平らな仕上げ砥を用います。
私は彫刻刀の柄を着脱式にしています。

内丸のノミを研いでます。やはり左右にローリングさせながら全体を研ぐ。右画像は左手を外してみたところ。

内丸の仕上げ研ぎです。
右は内曇のコッパでウラを研いでます。私は縦方向に動かします。
コッパには符丁が書いてあり、ノミごとに使う石が決まってます。
内丸のノミはウラがヒケてしまうと、いくら仕上げのコッパをあててもウラヒケが取りきれないので、たまに1000#ぐらいの中砥の砥汁をつけて研いだ方が切れるようになります。




ついでに外丸のノミの研ぎを、ご覧に入れます。
外丸のノミを頻繁に使う方はご存じと思いますが、このノミを平らに研いで使うと横に滑ってしまって非常にやりにくいです。
刃先を直線にする、という意味ではなしに、少しでも凹に研ぐと調子よく使えます。
並んでる砥石は、持っている外丸ノミの大中小に合わせた中砥と仕上砥です。
手前のコッパは2分の外丸ノミ用。
砥石は、研ぐ刃物の幅より少し狭く作るのがコツです。

2分の外丸ノミの中砥での研ぎです。横の金属片はダイヤモンド・ヤスリの小片でツラ直しに使います。このダイヤモンド・ヤスリ・の小片は仕上砥で名倉の代わりにも使ってます。

8分の外丸の叩きノミの中砥での研ぎです。中砥は2丁ずつ組で下面でお互いをツラ直しします。やはり縦方向は凸です。

2分の外丸ノミの中砥での研ぎ終了。

2分の外丸ノミの仕上げ研ぎです。
右は外丸用のウラ研ぎ用の仕上げ砥で、こればっかりは柔らかい石でいいようです。中が凹んだままにしてます。この上でローリングさせながら研ぐのですが、石が横方向に凹にならないように、刃先をはみ出させて研ぐことを頻繁にやります。

2分の外丸ノミが研ぎ上がりました。このようにクセ物の研ぎの仕上がりはギラギラの見栄えの悪い研ぎになりますが、これで良しとします。

以前、朝倉彫塑館の所蔵品の内丸ノミの研ぎを任され、一本ずつ専用の中砥、仕上砥を作って、まったく刃物と砥面を合わせる、ということをしたのですが、とても不合理な研ぎであることが分かりました。




8分外丸ノミを砥面にぴったり合わせてみました。ただし中砥です。



2012年7月3日火曜日

藤本四八、佐藤忠良、そのころ

 1945年の東京大空襲といえば3月10日だが、5月24日(未明),25日(夜間)は山手方面が爆撃目標にされた。この空襲の後、東京は爆撃目標から除外される。(3月10日は重爆325機、5月24日は525機、5月25日は470機。)
24,25日の空襲では日本側の死者4413名、アメリカ軍の搭乗員196名が死亡、1名が処刑され、44人が捕虜となり戦後帰国。
なお、日本側の死者の中にハチ公の作者である安藤照氏がいる。

 5月25日の空爆を受ける渋谷、広尾の街。左に東横線のカーブと明治通り。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Firebombing_of_Tokyo.jpg

 その24日に、高射砲の被弾によってB29、ニックネーム「Game Cook Charlee」が世田谷の赤堤に墜落した。搭乗員11名のうち7人が死亡。

 その頃、隣の梅ヶ丘では洋画家の後藤禎二さんが、B29の搭乗員におびえ竹槍を作る近所の人たちに「ばかなまねはやめろ」と諭していた。

その禎二さんの斜向かいには写真家の藤本四八さんが住んでいた(私道のような路地を挟んで)。長女が生まれ手狭になって同じ町内に家を買って引っ越していった土門拳氏にかわり、築地明石町に住んでいた新婚の藤本四八さんだが、1944年7月に召集された彫刻家佐藤忠良さんの住んでいたこの梅ヶ丘の家に引っ越してきていた。空襲を逃れてきたものと思う。
その藤本四八さんも、名取洋之助氏の日本工房からの1年3ヶ月余におよぶ中国戦線での取材を終えていたのだが、個人的に撮りためた唐招提寺と薬師寺の仏像の写真集の原稿を美術評論家の北川桃雄氏に託して、6月には横須賀海兵団に入団した。
後藤禎二さん42才、藤本四八さん34才、佐藤忠良さん33才、の時のはなしである。




私は後藤禎二さんの息子さんの写真家・後藤 九さんに用事がありお宅をたずね、その際に藤本四八さん宅にもおじゃましました。
1992年12月12日のことです。その時のメモが残っていたので紹介することとします。
「私が忠良さんにかわってこの家に入ったとき、ここ(書斎兼応接間?)には、石膏が層になってつもって、隣の畳の部屋までおよんでいた。庭もまったく掃いてなく、落ち葉が五寸ほどつもっていた。庭の落ち葉は忠良さんがその方がいいと思ってそうしてたんでしょう。」
とおっしゃってました。不正確ですが直接話法で記しました。
佐藤忠良さんが招集前に切羽詰まって、やるべき仕事をしていったことが伺えます。私は当初からのものと考えられる、その天井の馬糞ボードの天井板に見入ったのでした。

 メモから、藤本四八さんの応接間の俯瞰図。

 ふしぎだったのは、藤本さんの書斎には伊万里などの小さなオブジェが多数並べてあったのですが、まったくホコリが積もってないことでした。ホコリを嫌う職業として、暗室作業をしていた写真家は、塗師屋につぐのではないかとおもいました。
その、佐藤忠良さんも去年99才で、藤本四八さんは2006年95才で大往生です。
この、忠良さん、四八さんの住んだ家はもうありません。


 去年、佐藤忠良さんの亡くなる直前に世田谷美術館で佐藤忠良展があったのですが、友人に誘われた私は不遜にも「見飽きたからいい」と言ったのです。結局、その友人と展覧会に行った私は、そこにあった石膏の頭像にグッときました。真土型(まねがた)技法の鋳造作業の土に染まった石膏の頭像です。
なるほど、私はブロンズ色というものを見飽きていたのだとおもいました。



*参考文献

瞬間伝説 岡井耀毅 朝日文庫
青森空襲を記録する会、本土空襲墜落機調査 http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/mia.html