2014年2月28日金曜日
2014年2月9日日曜日
名工國弘とオイレ鑿 そして國行
ある晩、夕食時にNHKの「お江戸でござる」を見ていて、ハタと膝を打って独りで興奮したことがあります。いつもの芝居のあとの解説で杉浦日向子さんが「江戸時代は老入と書いてオイレと呼んで、隠居のことをさす言葉だった。」と教えてくれました。
この話しで、土田一郎さんが口伝で聞いていた「大工はオイレ鑿が作られる前は叩きノミの使い減ったものを肉まわしを削って造作用鑿に転用していた。」ということを思い出したのです。
つまり、江戸時代に老入鑿(オイレ鑿)とよばれていた、叩き鑿がちびて本来の用途に支障がでてきた物を改造して作っていた造作用の鑿を、明治になって最初から軽快な鑿として製品化するにあたって、いかにも中古のような老入という字を避けて「追入鑿」「押入れ鑿」などの字を当てたのではないか、ということです。
最初にオイレ鑿を製品化したのは國弘だと言われてますが、この國弘の造形センスたるや、鑿においては千代鶴でさえその枠の中から逃れられなかったほどです。
オイレ鑿は持っていないのですが、突き鑿が一本あります。
この突き鑿はかなり古い時期の國弘ではないかと思ってます。「天」の刻印がありません。古物市で國弘より一世代前の越後の幸道あたりのものだと思って買ってきて、家に帰ってから國弘だと気づいたぐらいです。ハガネに雲がありますが、焼きが甘いというのではなく、材料のハガネに低炭素のものが混じっていたのでしょう。
最盛期になりますと國弘は突き鑿に限ってはコミの長さが一寸九分ほどになるはずです。下の八分の突き鑿は叩いた傷がひどく國弘とは判別できないのですが明治初期の鑿だとおもいます。
八分突き鑿 正幅:23mm 首:4寸 コミ:1寸8分
はなしは変わって、1995年の4月、東郷神社の古物市でのことです。そこで鑿袋にくるまった見るからに古風な柄のこしらえがついた鑿群がありました。中に國弘のような鑿があったのです。店主はまとめて売りたいとのことでその場では断念しました。
國弘の「天」のような刻印なのですがチョッと違う、これを憶えていて図に描きおこし土田さんに見せましたところ「國行です。」とのこと。ことの重大さにガクゼンとしました。國行は父・國弘の工房で製造の大きな部分を占めていたらしいのですが夭折したので自分の國行銘での製作はごく短期間だったそうです。土田さんも鑿一本見たきりだそうです。
翌週の日曜日の早朝、その店主が出店している花園神社に出かけて店主が荷をあけるのを待ちました。「そんなにあわてなさんな、桜でも見てさ」って言われたってそれどころではありません。中古道具としては高額でしたが鑿袋一つ分を手に入れました。中に石堂寿永とおぼしき廣鑿もあったので筋のいい大工さんの道具だったのでしょう。
1寸四分オイレ鑿 正幅:41mm 首:1寸5分 コミ:1寸
(コバが使用者によってスられています。)
これがホントに國行の鑿であるかどうかは確証ありません。國弘の弟子筋は「天」を用いずに「大」の刻印を使ったそうです。「大」の刻印の鑿がもう一本あります。
一寸八分廣鑿 正幅:52mm 首:2寸一分 コミ:一寸三分
1998年の6月に川越の古物市で買った物です。これはあきらかに焼きが甘いです。が、姿としては國弘近辺の製作者とみていいでしょう。
柄にすがった状態で列べてみます。
ここらへんの事実は「大・國行」と刻印されたものが発見されれば明らかになるでしょう。國道の「大」は分かっています。列べてみましょう。
一番上が東郷神社のオイレ鑿、中が川越の廣鑿、下が國道の鉋です。
トレースしてみました。
同率の拡大です。左が東郷神社のオイレ鑿、中が川越の廣鑿、右が國道の鉋です。
新たな発見が待たれます。
*追記 (2015年8月21日)
友人が「大」の字の刻印された鉋を入手したので写真を撮らせてもらいました。國義と読めます。面(おもて)のコバ近くに登録の刻印がありますから國行の時代の物ではないようです。
私のノミの「大」の刻印とも違うようで、内心安堵しました。
また、トレースしてみました。
この話しで、土田一郎さんが口伝で聞いていた「大工はオイレ鑿が作られる前は叩きノミの使い減ったものを肉まわしを削って造作用鑿に転用していた。」ということを思い出したのです。
つまり、江戸時代に老入鑿(オイレ鑿)とよばれていた、叩き鑿がちびて本来の用途に支障がでてきた物を改造して作っていた造作用の鑿を、明治になって最初から軽快な鑿として製品化するにあたって、いかにも中古のような老入という字を避けて「追入鑿」「押入れ鑿」などの字を当てたのではないか、ということです。
最初にオイレ鑿を製品化したのは國弘だと言われてますが、この國弘の造形センスたるや、鑿においては千代鶴でさえその枠の中から逃れられなかったほどです。
オイレ鑿は持っていないのですが、突き鑿が一本あります。
一寸八分突き鑿 正幅: 41.5mm 首:3寸 コミ:1寸4分
この突き鑿はかなり古い時期の國弘ではないかと思ってます。「天」の刻印がありません。古物市で國弘より一世代前の越後の幸道あたりのものだと思って買ってきて、家に帰ってから國弘だと気づいたぐらいです。ハガネに雲がありますが、焼きが甘いというのではなく、材料のハガネに低炭素のものが混じっていたのでしょう。
最盛期になりますと國弘は突き鑿に限ってはコミの長さが一寸九分ほどになるはずです。下の八分の突き鑿は叩いた傷がひどく國弘とは判別できないのですが明治初期の鑿だとおもいます。
はなしは変わって、1995年の4月、東郷神社の古物市でのことです。そこで鑿袋にくるまった見るからに古風な柄のこしらえがついた鑿群がありました。中に國弘のような鑿があったのです。店主はまとめて売りたいとのことでその場では断念しました。
國弘の「天」のような刻印なのですがチョッと違う、これを憶えていて図に描きおこし土田さんに見せましたところ「國行です。」とのこと。ことの重大さにガクゼンとしました。國行は父・國弘の工房で製造の大きな部分を占めていたらしいのですが夭折したので自分の國行銘での製作はごく短期間だったそうです。土田さんも鑿一本見たきりだそうです。
(コバが使用者によってスられています。)
これがホントに國行の鑿であるかどうかは確証ありません。國弘の弟子筋は「天」を用いずに「大」の刻印を使ったそうです。「大」の刻印の鑿がもう一本あります。
1998年の6月に川越の古物市で買った物です。これはあきらかに焼きが甘いです。が、姿としては國弘近辺の製作者とみていいでしょう。
柄にすがった状態で列べてみます。
ここらへんの事実は「大・國行」と刻印されたものが発見されれば明らかになるでしょう。國道の「大」は分かっています。列べてみましょう。
一番上が東郷神社のオイレ鑿、中が川越の廣鑿、下が國道の鉋です。
トレースしてみました。
同率の拡大です。左が東郷神社のオイレ鑿、中が川越の廣鑿、右が國道の鉋です。
新たな発見が待たれます。
*追記 (2015年8月21日)
友人が「大」の字の刻印された鉋を入手したので写真を撮らせてもらいました。國義と読めます。面(おもて)のコバ近くに登録の刻印がありますから國行の時代の物ではないようです。
私のノミの「大」の刻印とも違うようで、内心安堵しました。
また、トレースしてみました。
2014年1月8日水曜日
マサカリの柄をすげる
(140匁 ≑ 523g)
完成です。片手使いのマサカリです。
2014年1月2日木曜日
初代國弘作 三寸廣ノミ 復元模刻
三軒茶屋の土田一郎さんが鍛冶屋の國弘のお宅で見たという、初代國弘(田中和多吉)が明治初期に作った三寸の廣ノミのことが以前から気になっていました。土田さんはそのノミを借りて千代鶴是秀のところへ行って見せたそうです。千代鶴は、初代が横座で二代が先手(さきて)で作った物だ、と言い切ったそうです。二代目というのは國行のことでしょうか。千代鶴は焼きの入ってない生の状態で國弘家に伝わっていたそのノミに、焼きを入れましょうか?と土田さんに言ったのですが、いくら何でも借りてきた物ですので、そのまま國弘家に返したそうです。
どうにか可視化したかったので土田さんの記憶をもとに木型で復元しました。
おあつらえ向きのヒノキの木っ端がありました。右のノミは現代のハイスのノミ。
エナメル塗料の実験も兼ねました。絵画材料のアルキド樹脂を使ったのですが、乾きが遅すぎて使い物になりませんでした。促進剤の類もためしてみたのですがうまくいきません。これは次の課題として、結局使い慣れたハンブロール社の塗料を使いました。
下地の塗装が終わった時点で、タガネで切り銘がしてあったというその「天」の字を土田さんに思い出して書いてもらいました。「天 國弘」の「天」です。
これは國弘の刻印。
できました。
このようにハガネは肩のアールの下端までしかはいってなかったそうです。はじめてノミにハガネを首のつけ根まで貼ったという國弘ですが、それを覆す先祖返りをみせています。
コミは初代國弘の時代特有のオベリスク型にしてみました。
どうにか可視化したかったので土田さんの記憶をもとに木型で復元しました。
おあつらえ向きのヒノキの木っ端がありました。右のノミは現代のハイスのノミ。
エナメル塗料の実験も兼ねました。絵画材料のアルキド樹脂を使ったのですが、乾きが遅すぎて使い物になりませんでした。促進剤の類もためしてみたのですがうまくいきません。これは次の課題として、結局使い慣れたハンブロール社の塗料を使いました。
下地の塗装が終わった時点で、タガネで切り銘がしてあったというその「天」の字を土田さんに思い出して書いてもらいました。「天 國弘」の「天」です。
これは國弘の刻印。
できました。
このようにハガネは肩のアールの下端までしかはいってなかったそうです。はじめてノミにハガネを首のつけ根まで貼ったという國弘ですが、それを覆す先祖返りをみせています。
コミは初代國弘の時代特有のオベリスク型にしてみました。
2013年12月31日火曜日
印刷風船保存に関する試み
イベントで配られた印刷入りの風船を空気を抜いて持ち帰りました。
とりあえずシッカロールをまぶして置きましたが、チョッとディスプレイしたくなったので実験してみました。
保存と題しましたが、ほんとに保存のためならいじらない方がいいかもしれません。
支持体に凸のものを選んだのは空気が逃げやすくするためです。
手ごろな筒型の容器に二つ割りした風船を輪ゴムで張る。写真は味噌ピーの容器です。ネジが切ってあったので、おあつらえむきに輪ゴムが止まりやすかった。
ゴム風船と凸面支持体、両面にゴム糊をぬる。この時、ゴム糊は専用溶剤で薄めることが肝心。
しばし、ゴム糊を乾かす。
中心を見定め、一気に押しつける。やり直しはきかない。
押しつけながら、空いた手で輪ゴムを切る。
裏はこんな感じになる。後で処理する。
支持体が白い方が良かったかも知れない。
とりあえずシッカロールをまぶして置きましたが、チョッとディスプレイしたくなったので実験してみました。
保存と題しましたが、ほんとに保存のためならいじらない方がいいかもしれません。
凸面鏡として売られているプラスチックを買ってきました。無地の缶バッチをさがしたんですが、ありませんでした。
手ごろな筒型の容器に二つ割りした風船を輪ゴムで張る。写真は味噌ピーの容器です。ネジが切ってあったので、おあつらえむきに輪ゴムが止まりやすかった。
ゴム風船と凸面支持体、両面にゴム糊をぬる。この時、ゴム糊は専用溶剤で薄めることが肝心。
しばし、ゴム糊を乾かす。
中心を見定め、一気に押しつける。やり直しはきかない。
押しつけながら、空いた手で輪ゴムを切る。
裏はこんな感じになる。後で処理する。
支持体が白い方が良かったかも知れない。
凸レンズでやる前に、ハッカ菓子の容器でやってみたもの。
これはフチの形状が複雑だったのと、風船を板に張ったので失敗でした。
2013年11月30日土曜日
モース・コレクション 義廣の鑿
江戸東京博物館の「明治のこころ モースが見た庶民のくらし」展に行ってきました。モース・コレクションの大工道具が来ていると聞いたからです。
以前から小学館「モースの見た日本」で、そのコレクションに國弘の外丸鑿と義廣の広鑿があることは確認していた。
行ってみると、写真で下の義廣の広鑿があった。
鍛冶職・義廣について知っていることは伝聞によるものが多く伝説の域にまでになっている。広く伝わっているのは、この写真のノミの作者の國弘と義廣は兄弟で江戸末期に越後から江戸に出てきて名を上げた人、ということだ。
「日本之下層社会」の横山源之助は有磯逸郎という名で「怪物伝」(平民書房 明治40年刊)という本をだしている。「名工の苦心」という章で義廣について聴き書きしている。
それによると生年に関しては触れてないが、田中義廣(本名:仁吉)は越後三条小池村に生まれ10才で江戸に出て来ている。安政2年(1855年)の大地震の際には独立していて復興に従事する大工の間で名を売ったとされているのでその頃には30才ぐらいにはなっていたのではないだろうか。没年は明治29年(1896年)。明治37年には長男の義太郎が57才で没している。
この聴き書きがなされたのはその明治37年である。その頃は3代目になる石太郎か仁志郎が仕事をしていたことになる。文中では義廣は弟子をとらずに親族だけで製作していたとある。横山源之助が聴き書きした相手は義廣の親戚だと名乗る老人なので、ここらへんは定かなことではない。言い伝えで弟子だとされる房州の豊廣や浜松弁天島の武虎は親族だということか?
あとひとつ不可解なのは義廣の兄とされる國弘のことが一言も出てこないことである。これは紙面の関係で、そこまで広げて記さなかったことも考えられる。
浅草の並木に井坂屋(後の河合鋼商店)が打刃物専門店を営んでいたようで、義廣はそこの専属であったという。高村光雲はそのことについて述べている。「・・・それから駒形に接近した境界(さかい)に これも有名だった伊坂という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に来ていた)。」
光雲の修行していた東雲の工房はこの近くで、義廣の名はあげてないが、使っていた可能性がある。浅草大火(1865慶應元年)の際に師匠の道具は失われたが、光雲の使っていた道具は助かっている。「ところが、また不思議なことには、私の道具箱がどこにどう潜んでいたのか、そのまま助かった。それは羊羹の折を道具箱にしたもので、切り出し、丸刀、鑿、物差しなどが入っていた。これが助かったので、後に大変役にたちました。」
さて、私が古物市で集めた中で義廣とおもわれる物を出してみた。
その中で柄にすがった状態のもの。
一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸3分、正幅:35ミリ
義廣と刻印がよめる。玉鋼であるが傷もなく組織が細かい感じ。研いであまく感じるが使用できる状態でないので不明。叩かれて傷だらけだが、モースのコレクションの広鑿に近い感じがする。
一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分5厘、正幅:34ミリ
義廣と刻印が読み取れる。玉鋼だがこれもうまく鍛えられていて細かい。使っても切れるとおもわれる。
一寸四分広鑿
首:2寸2分、コミ:1寸3分、正幅:42ミリ
当初、義廣と判断したのだが、自信がなくなった。玉鋼であるがこれも細かく、コバが薄いため鋼を巻いた形跡がない。(柄にすがった写真の一番左の鑿)
一寸六分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分、正幅:48.5ミリ
刻印が右側だけ傾いて打たれている、義廣と認識した。
地金は無地だが日本地であろう。側面は撮らなかったのだが今回の出した中で、これだけ甲がえぐれている。(柄のすがった写真の左から二番目)
一寸外丸叩き鑿
首:1寸9分、コミ:1寸2分、
これは豊廣であった。参考までに。この中で唯一使っている鑿。(柄のすがった写真の左から3番目の鑿)
鉋は2枚を所持している。
二寸鉋
正幅:74ミリ
叩かれたまくれがひどく、斜めになりパースがついて写っているが、コバはほとんど平行。甫がベタに押されてしまっているので台には挿げたが使用したことがない。輸入鋼ではないかと疑いたくなるほどの均一さ、鋼の素材はちょっと判断できない。
一寸六分鉋
正幅:58ミリ
上羽の蝶の紋章がハッキリしている。きわめて薄く古い時代の物ではないだろうか。まだ中砥までの研ぎ。
* 追記
箱は私が作りました。右は台ナラシのための馬に乗ってます。それと台ナラシ鉋の定規です。

削り試験を一回やったきりです。以後、使ってません。
屑は厚めですが、ひと研ぎで246尺削れました。ハガネが玉鋼ではなく輸入鋼だからでしょう。義廣の家は、けっこう早くから輸入鋼も使っていたのではという気がします。
以前から小学館「モースの見た日本」で、そのコレクションに國弘の外丸鑿と義廣の広鑿があることは確認していた。
![]() |
| 小学館「モースの見た日本」から複写 |
鍛冶職・義廣について知っていることは伝聞によるものが多く伝説の域にまでになっている。広く伝わっているのは、この写真のノミの作者の國弘と義廣は兄弟で江戸末期に越後から江戸に出てきて名を上げた人、ということだ。
「日本之下層社会」の横山源之助は有磯逸郎という名で「怪物伝」(平民書房 明治40年刊)という本をだしている。「名工の苦心」という章で義廣について聴き書きしている。
それによると生年に関しては触れてないが、田中義廣(本名:仁吉)は越後三条小池村に生まれ10才で江戸に出て来ている。安政2年(1855年)の大地震の際には独立していて復興に従事する大工の間で名を売ったとされているのでその頃には30才ぐらいにはなっていたのではないだろうか。没年は明治29年(1896年)。明治37年には長男の義太郎が57才で没している。
この聴き書きがなされたのはその明治37年である。その頃は3代目になる石太郎か仁志郎が仕事をしていたことになる。文中では義廣は弟子をとらずに親族だけで製作していたとある。横山源之助が聴き書きした相手は義廣の親戚だと名乗る老人なので、ここらへんは定かなことではない。言い伝えで弟子だとされる房州の豊廣や浜松弁天島の武虎は親族だということか?
あとひとつ不可解なのは義廣の兄とされる國弘のことが一言も出てこないことである。これは紙面の関係で、そこまで広げて記さなかったことも考えられる。
![]() |
| 右は江戸買い物案内、井坂屋との関係は不明。左は東京買い物案内 |
光雲の修行していた東雲の工房はこの近くで、義廣の名はあげてないが、使っていた可能性がある。浅草大火(1865慶應元年)の際に師匠の道具は失われたが、光雲の使っていた道具は助かっている。「ところが、また不思議なことには、私の道具箱がどこにどう潜んでいたのか、そのまま助かった。それは羊羹の折を道具箱にしたもので、切り出し、丸刀、鑿、物差しなどが入っていた。これが助かったので、後に大変役にたちました。」
さて、私が古物市で集めた中で義廣とおもわれる物を出してみた。
その中で柄にすがった状態のもの。
一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸3分、正幅:35ミリ
義廣と刻印がよめる。玉鋼であるが傷もなく組織が細かい感じ。研いであまく感じるが使用できる状態でないので不明。叩かれて傷だらけだが、モースのコレクションの広鑿に近い感じがする。
一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分5厘、正幅:34ミリ
義廣と刻印が読み取れる。玉鋼だがこれもうまく鍛えられていて細かい。使っても切れるとおもわれる。
一寸四分広鑿
首:2寸2分、コミ:1寸3分、正幅:42ミリ
当初、義廣と判断したのだが、自信がなくなった。玉鋼であるがこれも細かく、コバが薄いため鋼を巻いた形跡がない。(柄にすがった写真の一番左の鑿)
一寸六分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分、正幅:48.5ミリ
刻印が右側だけ傾いて打たれている、義廣と認識した。
地金は無地だが日本地であろう。側面は撮らなかったのだが今回の出した中で、これだけ甲がえぐれている。(柄のすがった写真の左から二番目)
一寸外丸叩き鑿
首:1寸9分、コミ:1寸2分、
これは豊廣であった。参考までに。この中で唯一使っている鑿。(柄のすがった写真の左から3番目の鑿)
鉋は2枚を所持している。
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| 面の刻印 |
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| 甲の刻印 |
正幅:74ミリ
叩かれたまくれがひどく、斜めになりパースがついて写っているが、コバはほとんど平行。甫がベタに押されてしまっているので台には挿げたが使用したことがない。輸入鋼ではないかと疑いたくなるほどの均一さ、鋼の素材はちょっと判断できない。
一寸六分鉋
正幅:58ミリ
上羽の蝶の紋章がハッキリしている。きわめて薄く古い時代の物ではないだろうか。まだ中砥までの研ぎ。
* 追記
五寸鉋
大工道具店をやっていたMさんが大工さんから二丁譲り受けたのが戦前。
まったく同じ鉋を二丁リャンコにして使っていたようです。どちらが仕上げかわかりませんでした。調子の良い方を仕上げにしていたのでしょう。大正年間は使われたと思います。
明治後期に作られたとして義廣は二代目の義太郎さんではないでしょうか。

削り試験を一回やったきりです。以後、使ってません。
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