2013年11月30日土曜日

モース・コレクション 義廣の鑿

 江戸東京博物館の「明治のこころ モースが見た庶民のくらし」展に行ってきました。モース・コレクションの大工道具が来ていると聞いたからです。



 以前から小学館「モースの見た日本」で、そのコレクションに國弘の外丸鑿と義廣の広鑿があることは確認していた。
小学館「モースの見た日本」から複写
行ってみると、写真で下の義廣の広鑿があった。

鍛冶職・義廣について知っていることは伝聞によるものが多く伝説の域にまでになっている。広く伝わっているのは、この写真のノミの作者の國弘と義廣は兄弟で江戸末期に越後から江戸に出てきて名を上げた人、ということだ。

 「日本之下層社会」の横山源之助は有磯逸郎という名で「怪物伝」(平民書房 明治40年刊)という本をだしている。「名工の苦心」という章で義廣について聴き書きしている。
それによると生年に関しては触れてないが、田中義廣(本名:仁吉)は越後三条小池村に生まれ10才で江戸に出て来ている。安政2年(1855年)の大地震の際には独立していて復興に従事する大工の間で名を売ったとされているのでその頃には30才ぐらいにはなっていたのではないだろうか。没年は明治29年(1896年)。明治37年には長男の義太郎が57才で没している。
この聴き書きがなされたのはその明治37年である。その頃は3代目になる石太郎か仁志郎が仕事をしていたことになる。文中では義廣は弟子をとらずに親族だけで製作していたとある。横山源之助が聴き書きした相手は義廣の親戚だと名乗る老人なので、ここらへんは定かなことではない。言い伝えで弟子だとされる房州の豊廣や浜松弁天島の武虎は親族だということか?
あとひとつ不可解なのは義廣の兄とされる國弘のことが一言も出てこないことである。これは紙面の関係で、そこまで広げて記さなかったことも考えられる。
右は江戸買い物案内、井坂屋との関係は不明。左は東京買い物案内
 浅草の並木に井坂屋(後の河合鋼商店)が打刃物専門店を営んでいたようで、義廣はそこの専属であったという。高村光雲はそのことについて述べている。「・・・それから駒形に接近した境界(さかい)に これも有名だった伊坂という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に来ていた)。」
光雲の修行していた東雲の工房はこの近くで、義廣の名はあげてないが、使っていた可能性がある。浅草大火(1865慶應元年)の際に師匠の道具は失われたが、光雲の使っていた道具は助かっている。「ところが、また不思議なことには、私の道具箱がどこにどう潜んでいたのか、そのまま助かった。それは羊羹の折を道具箱にしたもので、切り出し、丸刀、鑿、物差しなどが入っていた。これが助かったので、後に大変役にたちました。」

さて、私が古物市で集めた中で義廣とおもわれる物を出してみた。

 その中で柄にすがった状態のもの。





 
 一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸3分、正幅:35ミリ
義廣と刻印がよめる。玉鋼であるが傷もなく組織が細かい感じ。研いであまく感じるが使用できる状態でないので不明。叩かれて傷だらけだが、モースのコレクションの広鑿に近い感じがする。



 
 一寸二分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分5厘、正幅:34ミリ
義廣と刻印が読み取れる。玉鋼だがこれもうまく鍛えられていて細かい。使っても切れるとおもわれる。



 一寸四分広鑿
首:2寸2分、コミ:1寸3分、正幅:42ミリ
当初、義廣と判断したのだが、自信がなくなった。玉鋼であるがこれも細かく、コバが薄いため鋼を巻いた形跡がない。(柄にすがった写真の一番左の鑿)



 一寸六分広鑿
首:2寸、コミ:1寸2分、正幅:48.5ミリ
刻印が右側だけ傾いて打たれている、義廣と認識した。
地金は無地だが日本地であろう。側面は撮らなかったのだが今回の出した中で、これだけ甲がえぐれている。(柄のすがった写真の左から二番目)



 
 一寸外丸叩き鑿
首:1寸9分、コミ:1寸2分、
これは豊廣であった。参考までに。この中で唯一使っている鑿。(柄のすがった写真の左から3番目の鑿)
 
 



 鉋は2枚を所持している。



面の刻印
甲の刻印
 二寸鉋
正幅:74ミリ
叩かれたまくれがひどく、斜めになりパースがついて写っているが、コバはほとんど平行。甫がベタに押されてしまっているので台には挿げたが使用したことがない。輸入鋼ではないかと疑いたくなるほどの均一さ、鋼の素材はちょっと判断できない。



 一寸六分鉋
正幅:58ミリ
上羽の蝶の紋章がハッキリしている。きわめて薄く古い時代の物ではないだろうか。まだ中砥までの研ぎ。




 * 追記


 五寸鉋
大工道具店をやっていたMさんが大工さんから丁譲り受けたのが戦前。
まったく同じ鉋を二丁リャンコにして使っていたようです。どちらが仕上げかわかりませんでした。調子の良い方を仕上げにしていたのでしょう。大正年間は使われたと思います。
明治後期に作られたとして義廣は二代目の義太郎さんではないでしょうか。

 箱は私が作りました。右は台ナラシのための馬に乗ってます。それと台ナラシ鉋の定規です。


 削り試験を一回やったきりです。以後、使ってません。

屑は厚めですが、ひと研ぎで246尺削れました。ハガネが玉鋼ではなく輸入鋼だからでしょう。義廣の家は、けっこう早くから輸入鋼も使っていたのではという気がします。