2012年7月3日火曜日

藤本四八、佐藤忠良、そのころ

 1945年の東京大空襲といえば3月10日だが、5月24日(未明),25日(夜間)は山手方面が爆撃目標にされた。この空襲の後、東京は爆撃目標から除外される。(3月10日は重爆325機、5月24日は525機、5月25日は470機。)
24,25日の空襲では日本側の死者4413名、アメリカ軍の搭乗員196名が死亡、1名が処刑され、44人が捕虜となり戦後帰国。
なお、日本側の死者の中にハチ公の作者である安藤照氏がいる。

 5月25日の空爆を受ける渋谷、広尾の街。左に東横線のカーブと明治通り。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Firebombing_of_Tokyo.jpg

 その24日に、高射砲の被弾によってB29、ニックネーム「Game Cook Charlee」が世田谷の赤堤に墜落した。搭乗員11名のうち7人が死亡。

 その頃、隣の梅ヶ丘では洋画家の後藤禎二さんが、B29の搭乗員におびえ竹槍を作る近所の人たちに「ばかなまねはやめろ」と諭していた。

その禎二さんの斜向かいには写真家の藤本四八さんが住んでいた(私道のような路地を挟んで)。長女が生まれ手狭になって同じ町内に家を買って引っ越していった土門拳氏にかわり、築地明石町に住んでいた新婚の藤本四八さんだが、1944年7月に召集された彫刻家佐藤忠良さんの住んでいたこの梅ヶ丘の家に引っ越してきていた。空襲を逃れてきたものと思う。
その藤本四八さんも、名取洋之助氏の日本工房からの1年3ヶ月余におよぶ中国戦線での取材を終えていたのだが、個人的に撮りためた唐招提寺と薬師寺の仏像の写真集の原稿を美術評論家の北川桃雄氏に託して、6月には横須賀海兵団に入団した。
後藤禎二さん42才、藤本四八さん34才、佐藤忠良さん33才、の時のはなしである。




私は後藤禎二さんの息子さんの写真家・後藤 九さんに用事がありお宅をたずね、その際に藤本四八さん宅にもおじゃましました。
1992年12月12日のことです。その時のメモが残っていたので紹介することとします。
「私が忠良さんにかわってこの家に入ったとき、ここ(書斎兼応接間?)には、石膏が層になってつもって、隣の畳の部屋までおよんでいた。庭もまったく掃いてなく、落ち葉が五寸ほどつもっていた。庭の落ち葉は忠良さんがその方がいいと思ってそうしてたんでしょう。」
とおっしゃってました。不正確ですが直接話法で記しました。
佐藤忠良さんが招集前に切羽詰まって、やるべき仕事をしていったことが伺えます。私は当初からのものと考えられる、その天井の馬糞ボードの天井板に見入ったのでした。

 メモから、藤本四八さんの応接間の俯瞰図。

 ふしぎだったのは、藤本さんの書斎には伊万里などの小さなオブジェが多数並べてあったのですが、まったくホコリが積もってないことでした。ホコリを嫌う職業として、暗室作業をしていた写真家は、塗師屋につぐのではないかとおもいました。
その、佐藤忠良さんも去年99才で、藤本四八さんは2006年95才で大往生です。
この、忠良さん、四八さんの住んだ家はもうありません。


 去年、佐藤忠良さんの亡くなる直前に世田谷美術館で佐藤忠良展があったのですが、友人に誘われた私は不遜にも「見飽きたからいい」と言ったのです。結局、その友人と展覧会に行った私は、そこにあった石膏の頭像にグッときました。真土型(まねがた)技法の鋳造作業の土に染まった石膏の頭像です。
なるほど、私はブロンズ色というものを見飽きていたのだとおもいました。



*参考文献

瞬間伝説 岡井耀毅 朝日文庫
青森空襲を記録する会、本土空襲墜落機調査 http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/mia.html