2010年9月28日火曜日

越後中門造り 岩野富次郎家

 人の住まぬ家の荒廃は早い、それも世界有数の豪雪地帯にあってはなおさらである。私より数えて4代前の岩野富次郎の代に当たる明治初め頃に建てられた家も、10数年間人が住まぬようになっていたので、1981年の大雪で屋根の半分が倒壊し、そして82年の夏には、取り壊すことになった。以後の図面は解体直前に記したものである。

 *景観
 直江津からバスで頸城平野を経て、十文字から保倉川に沿い、さらに奥へ進むと大島村大平の街並みがあり、その少し手前が長者嶋とよばれる部落である。この戸数15軒からなる部落の構成を図示する(1982年時)。
岩野富次郎家の屋号は向(ムコウ)
*岩野富次郎家 間取り
 東西9間半、南北6間の主屋に、東西3間半、南北2間半の中門が付随して成り立っている。規格は1820mmの柱の心芯寸法とする江戸間(田舎間)である。
 形式としては、欅の柱に囲まれたヒロマ(広間)を中心として西側にザシキ(座敷)・ネマ(寝間)、東側にドマ(土間)・ジロバタを杉の柱で付随的に構成させてある「取り巻き広間形式」の民家である。
 家の西北端には、戸主の寝室とされているネマがあり、となりのザシキと同様に床の間がついている。なお、ザシキの床の間は二つに仕切られ、片方が仏壇となる。一般町人と本百姓層の民家での床の間は近世中期以降、地方によって程度のさこそあれ付けられるようになった。床の間禁止の禁令がでていることは、それ自体、床の間がかなり存在していたことを証拠だてており、この禁令はさほど守られなかったようである。
 ヒロマは2間×3間と4間×3間とに分けられ、天井がなく、中央に強大な指物・梁・屋根の小屋組まで見える。おおきなヒロマの3分の1が板敷きとなっている。ヒロマの南側の入り口は土間が半間の縁側が半間となる。
 囲炉裏のある部屋は普通、台所とよばれるが、この家ではジロバタとよんでいた。
 ジロバタのとなりの北東端のところは、ナガシとよばれ、井戸が掘ってある炊事場である。
 土間の上がり框にそって南につきあたったところに風呂があり、中門の二階へ行くには、そこにある階段をのぼる。
 土間は中門までつづき、作業場となっているが、中門の方にはウマヤ(厩)と便所がある。便所は冬期にくみ取ることができないので深く広く掘られている。
 中門の二階は、中二階であり、積雪期にはここから出入りする。その中二階の奥は大二階とよばれ昔は作男が寝起きしたという。
 なお、この家を特徴付ける中門であるが、中門とはよばず、トマグチとよばれていた。
 *架構
 架構は北陸一帯の特に加賀・能登・越中にみられる「枠の内造り」になっておりヒロマとよぶ集まり部屋の上部を強固な井桁組として他の部屋の構造は、付随して作られている。すなわち、岩野富次郎家では、雪の降り積もるのは西側からであり、そのために9寸角の欅の柱はヒロマを取り巻きながら全体として西側にかたより、雪の不均衡な積もり方に対応している。
 ヒロマを取り巻く架構は堅固なもので、鴨居の幅は1〜2尺ぐらいで、はじめから柱に組み込む構造材で、指鴨居とか貫鴨居とかよばれるものである。
 敷居から鴨居までは、1760mmであり柱の上端まで4320mmで、その上は小屋組へとつづく、指鴨居上端から柱の上端まで筋交いが入っている。
 *材料
 木材はすべて現地調達とおもわれる。欅の柱は不揃いであり、マサカリのハツリ目が残っており、まがったものもそのまま使われている。そして板などは手引きの大鋸目の矢羽根模様がついている。このことは帯鋸などの機械がまだなかったことをしめし、厚さも不揃いである。
 屋根は軒先を短く苅った茅葺きであるが中門の切り妻の部分は亜鉛引きのトタンである。中門の部分まで茅葺きでないものは、簡略型の中門造りであると言う説もあるが、もちろん古い時代にはすべて茅葺きであったので、そうすると、ふきあわせのダキとよばれる部分がいたみやすいので、切り妻の部分はトタン葺きとなったのであろう。また、中門の屋根型は古いものには寄せ棟や入母屋がみられる。
 外壁には白壁の部分はほとんどみられず板壁に覆われている。板壁は土に接し、床下を見ることはできない、これは家屋が雪に埋もれている時、雪面の冷たい空気は降りてきて家屋内の暖かい空気はうえに上がる。つまり煙突効果により床下から、すきま風がさかんに吹き上げてくる。であるから完全に板壁で床下まで外気を遮断することが必要となる。


 *越後中門造り
 古くは雪国の民家は土座住まいであった。”北越誌”には「魚沼郡の民家、多くは床無し、皆土間に藁を散じ、その上に筵を敷いて暮らす、床あっては雪中凌ぎ難し」とある。規格化された板がなく高価だった時代にはかえって板敷きなどにすると、すきま風がひどかったにちがいない。そして柱は積雪にたえるため掘っ立て柱が主流だった。
 そういった古い様式をつたえているものに旧所在地、長野下水内郡栄村上ノ原、現所在地大阪府豊中市、日本民家集落博物館の旧山田家住宅がある。栄村は信越国境付近にあり、秋山郷の一部にあたる。この家は壁は茅で作られているが、こういう茅壁は過去においては珍しいものではなかった。そして上屋柱2本が1mほど地中に埋けてあり、そのまわりには柱が腐らぬようにニガリがつめてあるのが発見されている。
旧山田家

 以上のレポートは、学生時代に授業の単位を3分の一の学生にあたえないことで有名な中野栄夫先生の夏期の課題で提出したものです。試験がまるでできなかった私ですが、このレポートのおかげで救われたとおもっています。先祖に感謝しました。
 大幅に縮小して載せました。既存の本から引用した部分もあるとおもいますが、今となっては分からないので悪しからず。